ちょっと、思ったこと 2001/06

BACK  TOP 


 6/25 共依存   

■ 6/02 エロ漫画  






共依存
2001/6/25


(これは6/13に載せていた文章の大幅改訂+大量加筆したものです)
もう先週の話になるのだが、夜7時半過ぎに8チャンで心霊写真を見ながらチャンネルを回していたら、NHK教育で「共依存」の話をしているのを目にした。その言葉について多少知っている私は、驚くとともに反射的に笑ってしまった。まさかこれをテレビが取り上げるとは思ってもみなかったからである。
言葉の興りという観点からか、番組ではアルコール依存症の旦那をもつ中年女性が「具体例」ということで登場していた。そもそも共依存というのは、アルコール依存症患者の配偶者によくみられる傾向に対して名づけられたものである。しかし今ではその言葉の適応範囲も広まり、一般的な人間関係を語る際にも使われるようになっている。特に日本では「共依存的」人間関係によって社会が成り立っていると言ってもいいくらいで、これから書くことについては、多くの人に「え?なんでそれが悪いの?フツーはそうじゃん」と言われそうである。が、無自覚なものに対して自覚的になるのは面白いでしょ?ということで今回書いてみる。


共依存と呼ばれるものは、個人の部分的な問題ではなく生き方全体に関わってくるものである。したがって具体例はさまざまだが、そのどれをみても問題の根本となっているのは共依存者の「自己否定」であり、共依存の本質が「他人に必要とされることの必要」と言われるのはそのためである。つまり自分で自分を否定しているため、「自分は生きていていいんだ、ここにいていいんだ、自分は自分のままであっていいんだ」という風に自己を肯定的に受け入れるには、「他人に必要とされる自分」という状況を介して他人から肯定されることが絶対に必要なのである。「生きていてほしい、ここにいてほしい」という他人の要請があってこそ生きられるわけで、したがって共依存者は、どんなことをしてでも「必要とされる自分」という状況をつくろうとする。


「自己否定」からもたらされる共依存者の特徴は、だいたい次のようなものである。

  1. 共依存者は自己の評価が低いため、本来の自分の判断を否定したり隠したりしてしまう。また「他人からの批判」を極度に恐れる。
  2. 共依存者は、例えばアル中の旦那の暴力に悩むなどの居心地の悪い生活を送りつつそこから逃れたいと思っていても、そのことが「他人に批判される」ことを恐れ、結局は耐えてしまう。
  3. 「他人からの批判」を配慮するあまり居心地の悪い生活に耐えている共依存者は、周囲の人間にもこうしたかたちでの「他者への配慮」を求める。「自分の世話を受けている他人は自分の仕事・役割に感謝し、少々問題があってもそれを表面に出したりせずに自分の支配下にいなければならない」。特にこれは親と子のような上下関係のなかで露骨に現れる。
  4. 共依存者は、他人と自分の感情とをはっきり区別することができない。例えば相手が沈黙すると、自分がなにか相手にとって不本意なことをしたのではないか、そもそも自分に欠陥があるのではないかと不安になる。また自分の愛している相手が自分以外の人を愛すということが受け入れられない。このことが他者への支配を強める。
 (参考;アダルト・チルドレンと家族--心のなかの子どもを癒す-- 斉藤学 学陽書房 1996)

1、2、はともかく3、4、はいきなり病気っぽい感じである。
3、4、について補足すると、まず3、は「共依存の支配幻想」といわれるやつである(個人的にはこれが一番興味深かった)。共依存者は自己否定的ゆえに言わば勝手に状況に支配されているわけだが、その反動なのか他者に対して「自分の世話を受けている他人は自分の仕事・役割に感謝し、少々問題があってもそれを表面に出したりせずに自分の支配下にいなければならない」と思っているというのである。これは理屈としては、自己の不自由さに関して客観視したくないがために他者に対しても不自由を強いて安住しようということなのだろうか。だとしたらその不自由に反発して縛られない人に対しては猛烈に怒るんだろうな。つまりこの支配幻想とは「俺がこれだけしてやってるのに何だよ、お前。文句ばっか言いやがって。俺だってときどきお前にムカつくことあんだよ」という言い方でよく耳にするものである。それに対しては私の場合「てかさー、ムカついてんだったらそん時言ってもらわなくちゃこちらとしても対処のしようがないしー、言われないことは問題にはできないよねー。そこまで自虐的じゃないしさー。今さらごちゃごちゃ言われてもー、困んだよ」という感じである。このような支配幻想という点を考えると「共依存は制度や組織と相性がよい」ということについては割とすっと理解できる話である(ちょっと飛躍し過ぎ?)。
4、については・・、すいません、当たり前のように提示しておきながら実は説明するとなるとちょっと難しいかもー。つまり何が言いたいのかよくわからない、この文章。「他人と自分の感情とをはっきり区別することができない」?この表現は適切ではないんじゃないかと私は思うのだが、例としてあげられているものを見るにここで言いたいことはおそらく2つあって、1つは「共依存者は人の感情に影響されやすい」ということと、それとは別に「共依存者は愛情としがみつきを混同する」ということなんじゃないだろうか。前者の「人の感情に影響されやすい」というのは当然で、それは他人に自分の存在理由やら何やらを丸なげしているからである。後者の「愛情としがみつきの混同」というのは言葉を変えて言えば「愛情と支配欲の混同」とも言え、自分が愛しているにも関わらずその相手が他の人を愛してしまった場合、「支配が弱い」と思うのか更に支配しようとするのである。そしてその支配についてだが、やりかたとしては「相手の世話をし、情緒的な支えになって、その人が自分なしではやっていけないところまでもっていく」というものである。悪だなーー。

第三者からみれば、それ(共依存)はあたかも「弱い女性」の生き方のように見えますが、実際のところ、共依存はパワー(権力)とコントロール(支配)の手段です。人を頼らせ、自分から離れないようにして、相手を支配し、ペット化するというわけです。

ところで話はちょっと前に戻るのだが、この共依存の根本の「自己否定」ってかなり耳にしませんかね。「今の自分は全然好きじゃない。はやく自分が好きって言えるようになりたいー」とかなんとか。あと「将来人に必要とされる人間になりたい」または「なれ」という言い方。更に、てめーが「情緒的な支え」たらんとしてこちらに自己開示を迫ってくる連中。まあ、私としてはこんなのとても相手にしてられんと思うし、実際なるべく避けてはいるのだが、それにしてもあまりにこういう奴らが多すぎる。
その理由は(先ほどちらと書いた「共依存は制度や組織と相性がよい」というところにつながってくると思うのだが)、社会が共依存を奨励しているからである。奨励というか、共依存的な思考が一般常識とされているのだ。モラルそのものを疑ってかかる人は少ない。したがって多くの人は何の疑問ももたず「良いこと、正しいこと」として共依存的なものを受け入れているわけである(今回参考にした本の著者斉藤氏も「共依存という病理の発見が遅れたのはそれが美徳の影に隠れているものだからだ」と述べている)。
社会が共依存に期待しているのは、その「恒常性」である。共依存者はあらゆるものとの関係を「しがみつき」によって結び、しがみつくことへの努力はまったく惜しまない。今まで作り上げてきたもろもろの関係が変化してしまうことは嫌うので保守的であり、自分と自分の身近なものとの関係がうまくいっていればそれでよく、視野が狭い。要するに共依存者はあんまり賢くないということだ。国民が賢くないほうが国もそれだけやりやすいに決まっている(実際今の小泉人気はどうよ)。「恒常性」を求める制度側のたくらみとして共依存はフル活用され、人びとは共依存によって相手を縛り自分も縛られているが、その事実は美徳によってカモフラージュされているが故に自身の感じている「生きにくさ」がどこからきているのかは全くわからないまま相も変わらず「自分はダメ人間だ」と思いこんで更に自己否定に陥るという悪循環。
制度側のたくらみについては、例えば結婚制度でいえば「結婚して嫁さん子どもができたらそう簡単には会社は辞めないだろう」ということである(この場合の制度の求める「恒常性」とは、会社と社員の関係においてである)。会社側は嫁さん子どもを人質に社員をこき使うことができ、一方必要とされることを必要としている共依存者の社員にしても「嫁さん子どもに必要とされる俺」というのは魅力的であるので、両者共ほくほくなのである。


「じゃあ共依存じゃない人ってどういう人なの?」という話に移ると、今まで述べてきたものの逆ということなのだが、要するに自己肯定的な人をいう。「人は人、自分は自分」と言える人である。人間関係においても、相手がつまんなかったら周りにどう言われようが離れていくし、逆にそうされた場合でも相手を恨んだりキレたりしない。こういった人は共依存者に常につきまとっている不安や支配欲から完全に自由なのである。また一般常識とされるものにも縛られないため、そういう意味で組織などとはあまり合わないのである。もちろん共依存者とも合わない。あいつらのべっちゃりぶりは閉口ものである。


冒頭で書いたNHKの番組では、「アル中の旦那とその嫁さん」との共依存的関係についてのみを取り上げていた。しかもそこにある問題を「支配被支配」の観点からではなく、単に「(なぜか)世話を焼き過ぎるおばはん」にしか見ていないようだった。まあ、私がここで話してきたような内容などNHKは言うまい。しかし個人的にはこの話は面白いと思っていたのでこの機会に書いてみた。アル中と共依存についての詳しいことはまったく触れなかったが、それは御希望があればそのうちに、ということにしたい。



このページのTOPへ




エロ漫画
2001/6/2


今ここにエロ漫画雑誌がある。おととい友人が買ってきて、「あげる」と言ってうちに置いていったものだ。エロ漫画は私にとっては見なれないものなので、どんなもんかいなと思って昨日一通り全部読んでみたのだが、なかなかに興味深いものであった。


まずは本の表紙。めちゃくちゃ金のかかってなさそうなデザインで、おもいきり同人っぽさを感じる(実際背表紙は「同人誌の委託販売の申し込み」云々という広告である)。表紙をめくるとその裏には「初体験はいつですか?」という文句の書かれた会員制アダルトホームページの広告があり、左ページからさっそく1話目が始まっている。これは巻頭カラーなので、それを活かした話の展開になっている。
雑誌には13作品が載っていて、うち4本くらいが連載ものらしいのだが、これってどうなのかなー?と思う。連載ものと読みきり。個人的には、 AVと同じように「ストーリーはなきがごとし」というような読みきりにしておいたほうが(こういう雑誌では)無難なんじゃないかと思うのだが。やはり連載ものはエロ漫画雑誌には向いてないだろう。描き手は所詮同人(あがり?)でしかなく、そもそも上質な話なんて期待できない。なまじストーリーがあるが故に毎回ちょろっとエロいことをするに過ぎず、かつ毎回エロを描かなくてはならないということで話の展開に無理が生じてしまう。要するに中途半端なのだ。それに比べればあっけらかんとエロだけを描いているもののほうがこちらも割り切れるし、使い勝手があるように思う。
さて今回一番ギモンに思ったことは「この描き方は果たしてエロいのだろうか」ということである。ちょっとあけっぴろげ過ぎやしないだろうか。私の感覚からすると、もうちょっとこちら側の想像力を刺激するような絵のほうが効果的だと思うのだが。あまりにスミからスミまで描かれると「お腹いっぱいー」という感じ。つまり「見えそで見えない」というのが私の好みであり、したがって最近よく見かける深いスリットの入ったスカートというのはツボである。ちなみに、かといって全裸のグラビアはエロいと思わないかというとそれは必ずしもそうではない。グラビアといえば、「高校時代は新体操やってました〜」というモデルに全裸で開脚をさせているようなデリカシーのないものを今だ見るが、あれはアリなんだろうか。シャワーを浴びているという設定の時に3ケ所だけ泡をのせるというセンスも、いい加減なんとかしてほしい。


エロ漫画というと昔は劇画調で内容も後ろ暗く、手にするのも背徳的な感じといったものだったが、今やセックスもギャグであり得るあたり、「変わったなあ」という感じである。そこは、果たしてエロいのかコワイのか分からないような日活ロマンポルノと今のAVとを考えたときに、よりしみじみ思う(てかAVはバカをやるのに全くためらいがないところが楽しい)。セックスの話がタブー的なものでなくなったというのは非常にいいことだ。だからこそセクハラやら夫婦間強姦やらが問題とされるようになったんで、これからもこの調子でどんどんやってもらいたいーー。



このページのTOPへ





BACK  TOP